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日経のサバイバビリティ特集は元日から続いている。
2009年1月5日付「自信喪失のアメリカ」。
ミレニアル世代という世紀の変わり目に青春時代を迎えた米国の若年層。
「アメリカが必ずしも世界で歓迎されていない」ことを肌で知る時代、と表現されている。
彼らは傷ついた大国、米国を立て直せるのか。この先の世界をいい方向に導いていけるのか。同じような考え方を持つ同じような世代は米国のみならず、日本をはじめ他の先進国、途上国に広く存在する。好むと好まざるとにかかわらず、世界は彼らと向き合わざるを得ない。
[2009.01.05付 日経新聞朝刊特集「世界この先 第1部 サバイバビリティ」より/強調Ekojin]
2009年1月6日付「リスクはとるもの」。
昨今の金融危機でとみに批判にさらされている金融業界。
しかし、個々にはいかがわしい金融機関や取引があっても、
いかに産業としての金融が「経済の血液」であるか、という考察。
貧困国に広がるマイクロファイナンス(超低額融資)という援助形態は、
施しの論理というよりも、「金融の論理」で生まれた・・・。
金融とは何か。時にバブルを作り出し、社会を混乱させてきたのは事実としても、人間の経済活動には欠かせない機能である。経済がどん底からはい上がる過程では、動機はともあれリスクの取り手が必ず現れ、新たなお金の流れを作り上げてきた。リスクを避けるのではなく、取ること。この本質を直視せず個人も企業も国家もこの先を語ることはできない。
[2009.01.06付 日経新聞朝刊特集「世界この先 第1部 サバイバビリティ」より/強調Ekojin]
2009年1月7日付「セカンドライフの誤算」。
一世を風靡するかに見えたリンデンラボ社の仮想空間「セカンドライフ」が
行き詰っている現状。その誤算はどこにあったか。
「仮想」よりも「現実」(リアル)の世界にむしろ希少性は生まれているのではないか。
ネット化は強烈な均質化の波でもある。そこに埋没したくない個人が「次の世界」を探し始めた。
[2009.01.07付 日経新聞朝刊特集「世界この先 第1部 サバイバビリティ」より/強調Ekojin]
2009年1月8日付「迷える代役」。
金融危機の震源地アメリカとその通貨ドルが、あえいでいる。
しかしユーロ圏やユーロに次の覇権は訪れるか。
いや、金融危機に欧州の金融機関が確保に走ったのはユーロではなくドルだった。
チャンスとばかりに結束を深めるBRICs各国も、
米国の意向はやはり無視できない現実がある。
さらば米国、されど米国――。欧州も中ロも米国の代役になりきれず、覇権の所在を探りながら惑っている。頼りなき極が乱立する不安定な時代。
[2009.01.08付 日経新聞朝刊特集「世界この先 第1部 サバイバビリティ」より/強調Ekojin]
2009年1月10日付「同時多発の不安」。
イデオロギーを異にするはずの米中という二大国には、
全国民をカバーする保険制度の不在、という共通の問題がある。
二国以外の先進各国も、さまざまなセーフティネット(安全網)の綻びが明らかになっている。
人口爆発の20世紀が終わり、21世紀の世界は次々に高齢化に突入する。問題は年を追うごとに切実になっていくだろう。世界の政治指導者に突きつけられているのは、国のサバイバビリティを左右する構想力でもある。
[2009.01.10付 日経新聞朝刊特集「世界この先 第1部 サバイバビリティ」より/強調Ekojin]
・・・こうして並べてみて、
自分なりに日経の主張を解釈するとこんな風になるだろうか:
国家(つまり日本)が生き残るためには、
昨今の金融危機に伴って説得力を増したかに見えるアンチ金融中心資本主義にいたずらに
惑わされることなく、理性的に国際情勢の現実を見据えるべきだ。
アメリカを見捨てることなく、金融のパワーと意義を否定せず、
華々しいネットビジネスなどに踊らされず、しっかり未来をみよう。。。 |
・・・もっともだと思う。
政治にとって、理性的な行動は最も大切なことかも知れない。
短期的利益を求めがちな国民にいかに長期的視野を伝えられるか、
とも言い直せるかもだけど。
でもどうですかね。
こだわりすぎかもしれないけど、やっぱり国家と個人は違うと思うのですよ。
生存競争にさらされ、またはさらされるべきなのは、
国家や企業、すなわち(広義の)法人までではないだろうか。
個人や価値観の生存(サバイバビリティ)の必要性を主張できるのは、
やはり(大嫌いな言葉で言えば)「勝ち組」(勝者)のみだと思う。
「勝ち組」の本質をこう分析する:
勝者は、競争の必要性を説き、敗者に対して「努力不足」と分析する。
勝者は、肯定される。
過去に遡って、「誰よりも努力した」「影で努力した」と形容される。
勝者には、機会か環境(または両方)が与えられていた。
敗者には、機会か環境(または両方)が与えられていなかった。
ところが、勝敗が決すると、過去の環境は捨象され、機会は平等だったとされる。
なのに、勝者には、さらなる機会と環境が与えられる。 |
上記は、極論だ。その認識はある。
だけど、本質として、間違っているだろうか。
個人や価値観の生存競争の結果とは、すなわち、こういうことではないのか。
・・・個人的には、これを否定したい。
敗者に光を。真の機会平等を。
当ブログの最も根幹の価値観です。
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