本当そのとおり:
たとえば、地球温暖化はCO2のせいとされていますが、それがまちがいだと証明される日が来るかもしれません。その場合、一所懸命CO2削減を呼びかけ、実行していた人たちはまちがっていたことになります。そういうことです。
人に完全ということはありません。しかし、まちがっているかもしれないという理由で、何もしないのは、もっとよくないのではないかと思います。 (坂本龍一氏)
[2008.11.01付 ビッグイシュー日本版 106号/強調Ekojin]
まさに、エコをやっているという人の気持ちを代弁している。
快哉を叫ぼう。
そりゃあね、みんな大人ですから、
CO2が温暖化の原因だ、
という説が間違ってるかもしれない、なんてことは百も承知なわけです。
人間の出した結論に絶対などないので。
温暖化CO2説を否定する論拠もいくつも読んだけど、
それなりに説得力があるなあ、とすら思うわけです。
なのにどうして、相変わらず
「温暖化防止の為にCO2を削減しよう」という運動を続けるのか。
それは、
「何かやらんと気がすまない」
ということ。
動かない言い訳をするより、動きながら考えよう、ということ。
人によってはジコマンと取る人も、「エコ教」のようだ、
と取る人もいるだろう。
でも人間の親が、子育ての際、
「どの育て方が最もこの子にとってプラスになるか」
とか
「何をするべきで、何をするべきではないのか」
とかをすべて結論を出してから子育てをするわけではなく、
やりながら学び、考え、微調整を続け、
がむしゃらに愛情を表現するのではないか。
それが何よりの誠意であり本能ではないか。
自分は、とりあえず、
生まれ落ちた環境と、その奇跡のような偶然に愛情と謝意を表現したい。
よくぞ自分を発生させてくれた、と。
そして、それらを守りたい、と思う。
表現の手段が間違っていたとしても、
それが自分にできることならば、そうする。
微調整は、あとからする。
こういう気持ちを分かってくれる「エコ教」の仲間は、
きっと多いと思ってる。


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